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昭和30年代の公営住宅のこと
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昭和30年代の公営住宅のこと


勝手口 かまどの
煙突があった
トイレ排気口の
煙突(風力式)
隣家 手押しポンプ
のちに水道
玄関 トイレ
和式
隣家
かまどがあったが、プロパンガスに
役目を譲る
台所兼食堂
ちゃぶ台が
ここにあった
押入れ 押入れ


3畳
居間6畳


 3歳から16歳までの13年間、市営住宅で暮らした。
 入居は、昭和35年の暮れのことだ。
 荷物を積んだオート三輪車の助手席の父の膝に座り、同じ市内郊外の転居先に移動したことを覚えている。
 後に聞いた話によれば、申し込んでいた新築の市営住宅の入居抽選に当たったそうだ。
 家賃もたいそう安く、当時、快適とされた住環境に、まだ若夫婦と呼ばれた父や母は天にも昇る思いであったろう。
 新築間もない市営住宅の生活はその日から始まる。
 それまでの市の中心部にいて見えた賑やかな光景と、郊外にある市営住宅から見える風景は、それまでとは打って変わった別世界のようで、とてもわくわくしたことをおぼろげながら記憶している。
 住宅は、木造モルタルの長屋形式のものである。
 不思議なことに、今でも、間取りを、克明に覚えているし、また、市営住宅時代の夢を見ることもある。
 一軒当たり、居間(6畳)、居間(3畳)、台所兼食堂(3畳)、トイレなどの間取りで都合9坪で、長屋1棟に5軒から6軒、全10棟の集合住宅である。
 1軒当たりの面積の狭さ、部屋数の少なさは、昭和30年代の住宅事情を彷彿させるものがある。
 40年の歳月を経て、老朽化はしたが、今も健在である。
 今となっては、決して良好な住環境とはいえないものの、近所づきあいなど、住み心地がよろしいことが原因なのかもしれないが、年老いてもなお元気にお住まいの方もかなりおられるようだ。

 入居当時、飲料水は井戸から手押しポンプで汲み上げ、ちゃんとカマドで煮炊きする様式であったが、プロパンガスの普及が高まった時期でもあり、すぐにプロパンガスを引いた。
 使わなくなった煙突が我が家のシンボルだった。
 水道も入居後、しばらくして電気ポンプでくみ上げ、蛇口から水が出るよう工事をした。
 国民の生活が急速に都市化していった時代だったのだろう。
 とはいうものの、内風呂はなく、風呂は銭湯に通う日々である。  トイレはもちろん汲み取り式の大小兼用の和式便器である。
 とにかく狭い我が家ではあったが、南に面した裏庭は建物の割にけっこうひろかった。
 弟も生まれ、手狭な我が家は尚狭くなって、5年目ぐらいに、裏庭に父が4.5畳の建て増しをした。
 やがて、建て増しは、大流行した。
 昭和一桁生まれの「お父さんたち」はとても器用であった。

 やがてどの家庭もおかあさんの内職の電気ミシンの音があちこちで聞こえるようになった。
 少しでもいい暮らしがしたい、子どもを大学に進学させたい・・・切なる母親の願い出あったろうか。

 自家用車を持っている家は、昭和30年代は、全くなかったし、舗装された道路は町内に存在しない。
 当時の冬は、今よりずっと寒く、水溜りに氷が張った。
 煉炭や豆炭の燃えカスもよく道に転がっていた。
 電話も個人では引いておらず、駄菓子屋の公衆電話が通信手段であった。
 何と言っても、うれしかったのは、まちの真中に、公園があったことだ。
 ポプラや松を中心とした植栽、芝生を張った園内には、ブランコもあったし、シーソーや滑り台などの遊具があった。
 当時としては、とてもハイカラな環境であった。天気のよい日などは、芝生の上でごはんを食べたこともあった。
 入居者の家族構成や経済状況は、似たり寄ったりのせいでもあったせいか、近所づきあいは、とても良好だった。
 お皿に持った手料理のおすそ分けが頻繁にあった。
 同じ年代の親たちから生まれた子どもたちは実に多くいた。
 学年を超えて、よく遊んだ。
 ソフトボールも広場でよくやったものだ。
 窓ガラスを割って叱られもした。
 子ども会も他の町内にくらべ、大所帯である。海水浴やクリスマス大会は盛大で楽しかった。
 夏休みの夜、映写会も屋外で開催したりした。
 町の中央を走る小川の水は入居当時、すばらしくきれいであり、魚もたくさん泳いでいた。
 魚捕りや釣りも楽しめた。
 小川沿いに無花果の木が植えられており、夏が終わると、子どもたちは、自由にそれを食べた。
 いつのころからだったろうか、小川の水が汚れ、濁るようになったのは。
 現在は、周辺地域の公共下水道も整備され、昔さながらのきれいな流れがよみがえっている。
 町外れにある野原は、昆虫の宝庫であり、よく虫を捕った。
 打上花火もそこへ打ち上げた。

 今でもときおり、あの市営住宅を訪れてみたい衝動にかられることがある。
 16歳のときの引越しのときに、ふと見ると、茶色くなった柱に、幾重ものキズがあった。
 幼いときから思春期までの私の成長記録である。
 もう一度、あの柱に背もたれてみたい。